【僕らが忘れた野生の鼓動】10/20【僕らが忘れた野生の鼓動】今日、本屋へ行きました。 もっとも、行った所はTUTAYAなので本来の目的は、ビデオを借りてきてこの週末はデロ~ンと過ごす為でした。 自動ドアが開いてすぐ左側に新刊の棚があり、その本が置いてありました。 『ティッピ』の本でした。 おそらく彼女自身の言葉の日本語訳とアフリカでの彼女の生き生きとした写真が載っていて、それはもう輝いて見えました。 ビデオは頭から何処かへ行ってしまい、すぐに購入!家に着くなり読み始めました。集中すること15分間。 心が震えてきました。 彼女はまだ11歳。その大半をアフリカで過ごし、マスメディアでも騒がれたことがあったから知っている人は多いと思います。 『野性動物と話す少女』『動物の気持ちが分かる不思議な女の子』 etc・・・。 野生動物と話をする時、目や頭や心や魂でするの、と彼女は言ってました。そこには口という単語はなかった。 自分以外のものとコミュニケ-ションをとる時に口がいらないことを始めて知りました。心で、心から接する、全身で、いろいろと一番いい方法は聞いてきたけど、口が無いのは初めてだった。 僕は即座に11歳のこの小さな女の子の弟子になりたいと思った。 文章はやっぱりまだ子供で言い回しが不完全なところもある。僕らにも本当に理解できるようにきちっと彼女が話せるまであと30年は必要でしょう。それまで待てない!その頃僕はおじいちゃんです。今すぐ弟子入りしたい気分です。 僕が感動したのは野生動物と話せるとかじゃなくて、彼女の中にしっかりと根付いている精神です。それはパパやママに教わった事もあるかもしれないけど、その殆どはサバンナの中から自然と身に付いていったものなんでしょうね。 生き物は皆食べたり食べられたりする。かの宮崎駿大先生がこれを公言したのはナウシカのころですから大体10年前です。彼と言っている内容が同じなんですよ。彼女は食べられたくないから決して注意を逸らさない。生きることは簡単じゃない。でもそれは相手も全く同じ事で、だから彼女は自分には敵意も無いし相手を恐れてもいないことを示す。 彼女の中では生の死も当り前の様に存在している。ね?まるでナウシカでしょ? 弱冠11歳ですよ!11歳! 比べることは無意味だと知っててもやっぱり比べてしまう。この日本の子供と、いや、僕も含めて日本人とね。(テロ事件のお参りに行ったはいいけど、最後に今日は楽しかったとか書いてるしなぁ。ったく恥ずかしいったらありゃしない) 基本的に僕は、残念ながら人間はもう自然には帰れないと思ってます。どんなに自然界に向き合おうとしても、あくまでも外から眺めるだけ、憧れることしかできない。何故って自然界では生きていけなかったからこそ僕らは社会を作り、その中で一生を終える事を選んだからです。それに僕らが口にする自然は僕らにとって都合のいい自然のことで、本物の自然じゃない。 その考えは今も変わりません。この僕だって裸で自然界に放り出されたら生きてけない。生きてけるなら街になんか住んでないです。 だから彼女は『特別』あるいは『幸福』なのだと思います。でも、なんか悲しいよなぁ、それって・・・・。僕もやっぱり悲しい大人なのかなあ。 いい顔してるんですよ、ホントに。 ダチョウに乗ってサバンナの風に髪をなびかせてるのが僕は一番好きだなぁ。仮にこの本の内容が作り話だとしても、彼女のプロフィールがインチキだったとしても僕はいいですね。こういう風に騙されるんならいいです。ってこう考えてしまうところが情けないんですよね・・・トホホ。 生きるってそうでしたよ。死ぬことですよ。それが当り前。 うーん、うまく言えませんが、そこに特別な何か意味合いを持たせることなんて始めから無かったんです。ただ自分が分けてあげられる分を与え、相手が無理なくが与えられる分だけ貰う。そこには感謝と信頼と冒険心と生命の強い鼓動があります。実にシンプルな生活です。 いや~、ホント考えさせられました。今日はいい日になった。うん。 前略 ティッピちゃん 『はじめまして』なんだけどまだ会った事は無いんだ。できれば世界中が君の好きなアフリカになればいいけど・・・。いや、きっとなるね。ならなきゃぁいかん! 君はとてもいい顔をして笑っていたよ。花マル三重マルあげます! この地球の何処で暮らしていても、君の周りにはきっといつでもサバンナの匂いのする優しい風が吹いてるんだろうなあ。 この世界が君の望む世界に変わりますように・・・・。 |